マンガ×ミュージアム脱限界論-マンガ表現規制問題をめぐって-録画1
テキストをほぼリアルタイムで文字にしてたので,以下に貼っておきます.
誤字の指摘などは twitter: @takot までお願いします.
吉村:要点を三つにまとめると
1.こうした政治的動向にきちんと向き合う
2.本質的な議論としてきちんと考えていく必要がある
そのためにデータの提示だけでなくて,いろんな観点からどのような意味で問題化されるのか,その幅を広げ本質を深める機会とする
3.そもそもマンガミュージアムに期待される展示・図書機能のみならず
マンガに関連する諸々の議論の場を提供・継続することが,
能動的な,漫画を扱うミュージアムとして重要であるだろう
その第一歩とするべく時間を設定した
きょうはustされるよ.
後半は質疑応答に時間取るが,その際も中継される
できれば名前を,そうでない人は注意して.
竹宮:
私は当事者だと思っています
十分規制にかかるであろう当事者と認識した.
初めにこの文章が提示されたときにそう思った
3/15に,ちば先生,里中先生らと記者会見した
継続審議になってホッとしたが,6月にそれを通すという動きは続いている.
非常に危惧している.
4/20に京都まで行きますから,ということで,都の青少年課から説明に来られた
都がどうしてこれを決めたいのか説明するという.
あちらの説明については内容は分かった.
「そういう意味なんですね」ということは.
でも,私自身は反対です.
条文をこのまま決めるのであれば反対すると言うことでお帰りいただいた.
ところが5/6に都議会の総務委員会が答申した
質問に答申した
それに答えた答えが,
「竹宮さんのところに説明にいって理解いただいた」
と.
(それはどういう流れかというと)まずあちらからメールで問い合わせがきた
「このように報告する」と.
「竹宮さんの言葉に関しては,私たちがあれこれ言うわけにはいかないので
その内容については触れません.でも説明はしました.という事実のみ報告した(する)」
それだと危ないことになると思っていたが,その通りになった.
都の答申を聞いた人たちは,竹宮さんは納得したかのように受け取った人が多いであろう.
コミティアの中村さんから直電があって「本当ですか?」と.
それはそんな意味ではありません,と.納得したわけでは全然無い,
メールでも反対ですと.
どのように言われても反対であると.
ただ私の言葉のまま言うわけにはいかないというのは
ある種それもそうだということで(そのまま通した).
その後のメールのやりとりで「私が怒っているのかもしれない」と,
都側が思ったらしい.
そんな誤解がされているのであれば心外なので
やっぱり「反対なんです」と表明した
メールが来て,都側が,「怒っていないでしょうか」と.私たちはそんなつもりではなかったんです,と.
そんなことになるんであれば,「こんなやりとりがあった」と調整してもらえればよかった.
いまはネットで速い広がりを見せるので,
私自身もそんなことで納得したかのように広がるとは思っていなかったので
そのために釈明しに行かなければならないこともあるんだと強く感じた.
いいたいのは,都側が,漫画家が誤解してると思っている,
それに対して都側は説明をしなければ行けないと思っている.
でもあのとき記者会見をした漫画家は誤解していない
文章がいけないと言ってるのであって.
でもよほどひどいものだけにしか適用しないと言われても,
条文は条文.いまの青少年課の人たちはよほどひどいことにしか関心がないかもしれない.
しかし条文が残っている限りにおいてもっと拡大解釈があるかもしれない
竹宮惠子の『風と木の詩』はダメだと思うかもしれない
この条例はもう一つ,親や学校の先生にもある意味,
どういったらいいか,摘発,そういうものを強要するところがある.
親がそういうのを子どもに読むことを許していたら怒られる
そういうのになっているのに,一般の人たちはいいと思ってるのか
そういうのがないと親は怒れないのだろうか
そういうのがなくても親は何とかしようと思ってるはずなので
そんなことを言われる筋合いはないんではないかと思う
自分がこの条文の施行者であったら『風と木の詩』は対象だと思いますと
いいましたが,
条文化というのは,広義・狭義を含むもの
とても心配
その意味で条文は石橋を叩いて制定しなければならない
まっさらな気持ちで条文を読んでほしい
そうすると『風と木の詩』は入ると思う
そんな条文を拙速にやろうとしていること,
それを都として,ひいては日本全体に及ぶようなことなので
それを制定する側の問題として恥ずかしいことなんではないか
ちゃんと確認して,誰も困らない,それでいいですという納得が
得られていないのに制定しようとすることは
一時代前に戻っている
反対のための反対をずっとしていても解決しない問題ではないか
この条例を反対し,退けるのであれば,
本当にひどいものをどのように区分けすればよいのか
条文で区分けされると,その作品は悪書になってしまう
「悪書」という言葉はどうでしょうか.
青少年にとっての「悪書」なんだけど
いちいちそうは言えないから「悪書」になってしまう
そうすると一般の大人にとっても「悪書」といわれることになってしまう
青少年にとっての「悪書」なのに一般人にとっての「悪書」になり
罪深いものになる
それが一人歩きし風評被害が起こってしまう
それを気をつけながら,青少年に渡さないようにしながら,
同人誌を作っている人たちも「そういうのを作ってるんでしょ」ということになってしまう
そういう同人誌が日本の漫画文化を支えているところもある
作品を作ろうという気持ちを萎えさせてしまうこと
その気持ちを公平な目で見てほしい
差別されるような条文を通したくないということが一番にいいたい.
その後どうするのか.
くわけをするにはどういうこーどをつくったらいいのか
コード=規制ということだが
ランクわけにならないような区分けの仕方だってあるはずだし
それなら差別にならないだろうし
それを出版する出版社の側からどうにかならないか.
それをやることで条文を撤廃してくださいと言うことができるのであれば,
それがいいのではないか.
吉村:
竹宮先生はマンガ学部の学部長でありながら『風と木の―』作者であるので
この問題は避けて通れないなと言うことなので
教授会でも採り上げた
2/24に,改正条例が提出されている
3/18に,都議会総務委員会が行われて,結果としては継続審議
これがそのままの状態では収まらないだろうと.流れに来ている
その中で,竹宮さんへの聞き取りや反応があった.
続きまして斎藤さん
性表現への原理的な問題提起
斎藤:
基本的には,児童買春・児ポ法にも疑問を持っている.
基本的には現在の刑法ですべてできるのではないか
それに加えてがんじがらめにしていくのはまずいのではないかと思っている
今日は原理的にどういうことなんだろうという私のアイデアを
皆さんに聞いていただいて,
一緒に考えていただければ.
性についての思想史,科学史を研究していて
その資料を膨大に持っています
そうしますと,いろんな人からまた送られてくるんですよね
おじいちゃんが亡くなったらこんなのが出てきて
家に置いておくのは大変だから,といって
やや困ったりもするんですけど
戦後すぐのエロ写真系統がきたりして
御礼を出しようにもどなたが送ってくれたか分からない
こういう条例ができていくと,持っているだけで問題になるんじゃないかと思う
性の科学史についてずっと勉強していますので,
原理的なアイデアをお話ししたいと思っています
私たちが生活している,住んでいる社会は近代社会
近代社会の構成は,すごく簡単に言うと,
公的な領域と私的な領域に社会全体を区別するのだと思います
私的な領域ではどういうことをやっても,特に問題はないと.
その代わり公的な中では,一定のルールがあるのだろうと.
その中でセックス,性はどう配置されているか
基本的にはプライベートな,私的な領域で行ってください
生徒関わる問題としては「裸」がある
自分の部屋で裸になっていたら問題にならないが
私がここで脱ぎだしたら大変なことになる
ナノで基本的にはプライベートな領域
しかしよくみると,パブリックな領域でも性を囲い込んでいるところがある
1.性産業
売買春.近代社会以前から有るものなので,どのように近代社会に取り込むか
いろいろ
2.カップル
カップルは公的な場にいる性
日本が近代化する以前は,カップルで歩くのは不道徳だった
だいたいカップルは前を男が歩き後ろを女が歩くとか
「三四郎」を読めば分かるが
三四郎が本郷の近くを女性と歩くとみんながじっと見る
それは公的な場におけるセックスであるから
いまや風景になってしまった.ただ
ちょっと日本だと,ややキスなんかをしたり,
これは「あ,なに?」という感じになるんですね
そして
3.性表現
性表現という領域は,これは概括的に言うと,江戸期にあったというのは間違いないが
かなり近代的なものであろうと.
今回は性表現における問題が出てきている,それをどう規制するか,権力が介入するかという問題.
これは良く考えると,プライベートな領域への性の介入になる
これは大きく分けると,アート系のものと,性ファンタジーの素材
その二つに分けることができる.
この辺りは論争が起きると,かつては,芸術かわいせつか,という
感じで戦われた
猥褻だという法は,性ファンタジーの素材だと
ポルノが日本の法体系に入ったのは「児童ポルノ法」
それ以前は「わいせつ物」という概念で括られているはず
性ファンタジーの素材では,具体的に何か,打撃を受ける人はいるのか
性ファンタジーを問題視する人たちは,多くは,公的な場を道徳的にしたい,とか
倫理的にしたい,もうちょっと違う言葉を使うと「きれいにしたい,清潔にしたい」
そういう感じを持っていると思う
確かにきれいな世界はいい
しかし,ゴミが全くない世界も住みよいのかという
『ナチス・ドイツ 清潔な帝国』という本があるが,清潔な帝国の
息苦しさが分かる.
性ファンタジーを規制するというのは,私から考えると,
プライベートの中にも,他の人が考える道徳律を入れようと
考えているのではないか.
そう考えたときに,今回のような表現の問題に関わる法的な,条例的な規制というのは
どのような意味づけができるか.
1.表現の問題
表現への,ある種の規制
表現の自由への介入
2.性ファンタジーへの介入
これは,思想の自由への介入だと思う
この条例は,表現の自由だけではなくて,思想の自由も問題にするような
そこに介入するものではないか
3.プライベートな性を楽しむことへの介入
プライベートなところには公権力は入らないというのが基本
ところがプライベートなところにおける二人以上のところに
公権力が入るようになってきた.
DV,児童虐待.
しかし,今回の問題は,性ファンタジーというのは,
だいたいオナニズムと関係する
そうすると「個人の何かに介入する」かなり違う原理で
介入することになると理解している
これは大変大きな問題で,
近代の公的・私的と分けるわけ方自体を堀崩していく問題になることではないか
もう一つ別の問題から
最近まで,京都のモダニズムの研究をしている
1920~30,40年代まで
京都のモダニズムはたいへん面白いが今日は関係ないので
やりたいですけどやりませんが
その時に気づいたのは
京都のモダニズムを牽引していった人たちが
治安維持法で弾圧されていく
なかなか巧妙な形で,それをやっている
どういうことかというと,規制対象が,あいまいな法文があると
規制対象が滑っていって,広がっていく.
治安維持法は10何年成立している,20年近く
最初は,過激な共産主義者,共産党を攻撃するが
どんどんどんどん,いなくなったら次,次というかたちで
京都なら,新興の俳句をやっている,京大俳句まで弾圧された
西東三鬼,その次はジャーナリズム
法的なシステムは次々とやっていくという一般法則があるのでは.
それから法的システムは,警察も,広げていく
1930年に研究会をやっていて特高の刑事たちが張っている
久野収が立ち小便したら
あとで久野収が捕まったら「お前は立ち小便してどうの」と
あいまいなところがあったらどんどん入れていく
法システムにしてしまって曖昧な言葉が入ると
「いまは」これやってるけど,それがなくなったら,次へ
という形でおそらく,これは法システムがそういう自動性を
もってるのだろうと思ってますが,そういうのになってるのだろうと
そういう原理的に考えると,
もう一つは,システムとして作ってしまうと
どんどん一人歩きしてしまって
いまはこういう風になっているけど,
限界まで取り込む形になるのではないか
それが法に携わる人の仕事の生き甲斐になったりすると.
私はアイデアとしてこういうふうになるんじゃないか
こう考えられるんじゃないかとおもっているが
概念的にはなかなか面白いんですけど(笑い)
それを法的なものに入れて大丈夫なのかと
それがどこから出てくるか,
私の,近代における近代の公私,
吉村:
治安維持法って,敗戦が引き金ではあるが,
戦後まで残ってるんですよね
斎藤:
1945年10月まで残っていて,三木清という哲学者が獄死している
吉村:
平たく言えば,個人的にはほっといてくれと思うんですが
今度はほっとかなければどうなるか
ジェニスン先生から
ジェニスン:
こんにちは
実は私はむしろ,みなさんと交替したい気持ちですけど
この中で聴きに来ている人を含めて
マンガについて一番詳しくない立場かもしれない
一緒に勉強しに来たつもりで
京都精華大学で文学,アート,
私自身の研究しはじめたときには
フェミニズム批評がさかんだったので
アメリカの事例を含めながら
一緒に考えていきたいと思います
今日の皆さんとの話し合いを楽しみにしています
結論から言って,
吉村先生のいったように
複数の目線からこの問題を見たり
非常に複雑なので,私は答えはないんですが
斎藤先生が
非常に考えなければならない課題がたくさんある
マンガミュージアムがこれからそういう考える場になればうれしいんですが
複数の目線から考えることが大切だと思ってる
もともと日本近代文学,女性作家を採り上げて論文を書いていた
アート表現,表現の所に触れて
ジェンダー論の立場から,議論,方法論,テクストを読む方法をとりいれて
やる仕事をしてきた
いっぽう国際会議の場で,藤本ゆかり先生からメールが来たんですが
ジュネーブで採り上げることに
女性差別の言説として採り上げる必要もあるのではないか
もう一つアメリカにおけるアンチポルノグラフィ・アンチ検閲について
いくつかの議論が交差したり,騒動という言葉があるが
衝突している感じもあるので
ふくすうの目線から見て
考える必要がある
条例や法案より,朝日の英語版に
記事の最後に,逆に私も日本語で
書いているんですが
アーティスト,作者と保護者が話し合う必要があると
文学論,物語論,
日本文学の研究者も海外で何人か知ってますが
この時代,ビジュアルカルチャー,視覚文化が広がってルナかで
ポピュラー.カルチャー,カルチュラル・スタディーズを
考えていくことが必要
もともと近代文学,平安文学の研究をしてた人たちが
漫画・アニメの研究をしている人がたくさんいる
もともと女性文学をやってきたが
表象のポリティクス
誰の口から誰の問題が語られているか(いないか)
15年前,授業で最後に,「みなさん何を読んでますか」
教えてください,といったら
竹宮先生の作品とか,内田春菊とか
学び始めました
あるいは藤本ゆかり先生の「私の居場所はどこにあるのか」
その中で感じたのは「居場所が見つからないから,ファンジーの
中で描かれるキャラクタ,ストーリーをアイデンティファイして
自分でも語れるような力が付くとか
自分でも深く理解できるようになっていく
その中でジェンダー,セクシュアリティの問題が出てくる
「風と木の詩」のなかにも,10代の主人公が
自分のアイデンティティを確認していくような物語
私も授業の中で文学作品として採り上げた
その中で支配的な表象システムにおいて
見えにくいキャラクターからどのように表現,表象は
可能なのか,というのは一つのテーマ.
その中で,性や身体,すべて異性愛ではなくて
同性愛もある,現実にはアイデンティファイできないものが
作品の中に作り直す,表現し直す可能性が
出てくるような表現を考えてい,授業の中で考えていくこともあった.
抽象的で難しく,話せないが
事例としても,条例の言葉が曖昧であるから,どこまでが対象になるか
どこまで規制がかかるかを,実は,竹宮さんの記事を読ませていただいたので
実は来週の授業でカラー・パープルを採り上げるとか
もちろん18歳以上の学生を対象としているが
考えてみれば私の研究室も,どうなるのか,と
ふっと思い出したんですね
これで具体例の話になりますが,米国における状況
実は私は30年以上前に日本に来まして
いま言ったようなアメリカで起きている議論,討論,論争も
あったが,一つ身近な例としては,
「カラー・パープル」,アフリカン・アメリカンの作品ですが
1982年にピューリッツァー文学賞をとった
検閲に対するチャレンジ,検閲すべきではないかという講義,申し入れが
州や町や,教育委員会,図書館,いろんなところに,
「こんな本は悪質じゃないか」と申し入れができるシステムがある
実は「カラー・パープル」はチャレンジをされた作品
2年後から,オークランドでは議論になって
市単位,カウンティ単位で教科書として採択するかどうか議論になる
そこでアメリカ全国にチャレンジされていくが
その頃,80年代後半に意識し始めたのは
この作品はどこそこの図書館では見られない,読めないかたちになっている
ウェブ上でそういうリストがあるが,そういう展示があって,
他にあるんじゃないかなと思って,児童文学に同僚に,相談してみたら
皆さんもご存じかもしれないが
欧米で,キリスト教的な
(OHP)
モーリス・センダックの「かいじゅうたちのいるところ」
キリスト教的な背景があるが
悪魔的な様子とか,キリスト教にあわないものもあったりするとか
もう一つびっくりしたのは,「まよなかのだいどころ」という
作品があるが
センダックは児童文学賞たくさん取ってる作家で
「まよなかのだいどころ」はおちんちんが見えるからということで
主人公の子どもが裸で
私も子ども小さいときに読んでたけど
ミルク一杯の風呂に落ちていく,それが問題になった
ハリー・ポッターもチャレンジを受ける本
邪教的なものもあったり(キリスト教的なところからみれば)
赤ずきんちゃんも,ワインの入ったバスケットを持って行くので
「子どもがワインを飲みたくなるから」という
非実在のものと,描かれているものと実際の行動と
結びつくんじゃないかと.これは全国的に言われてるわけじゃなくて
小さいところにいわれてるけど
煙草が描かれているから,図書館に置かない方がいいだとか
もう一つ,知らなかった例としては
「うさぎたちの結婚式」
この中にはinterracialな夫婦が出る
雄のウサギは黒,雌のウサギは白
アメリカでこれは,人種間の結婚として読まれる,と.
これは良くない,と,児童図書なんで引っかかった.
ヘザーと二人のおかあさん
レズビアンのお母さんが子どもを育てるという
これはウェブ上の展示になっている
これは児童書のことだけだけど
検閲のチャレンジを受けた作品をウェブ上で見られると.
もうちょっと調べていくと,新しい,
この問題に対応する団体もある
アメリカ全国英語教員協会,
アンチ検閲委員会も設けていて,
中学校・高校の教師だと思うけれど
学生,生徒たちも読む権利があるんじゃないかという議論を行っている
そのガイドラインも,何枚も入っている
それから,なぜ,カラー・パープルとかがチャレンジを受けるのか
そういうときにどうしたらいいかという
対応のハウツーページもいっぱいは言っている
たとえばCDつきの,教師が,あるいは保護者・PTAが
「この本は良くないんじゃないか」といったときに
チャレンジをされたときにどうすればいいか
そのときに,「なぜこれを読んでもいいのか」という理由を
説得するためのガイドブックも着いてくる
キャサリン・パタースンの
それこそ未成年の主人公で大きな文学賞を
取った作品だけど,これもけんえつをすべきだとおいう
チャレンジを受ける作品だけど
ブログなどで見たら,こどもたちというか
自分でも悩んでいる子たちが,授業などで語って
「これは奇跡だ,作品を読むことによって,がっこうせいかつが
やりやすくなったり,勉強にも興味を持ちだしたりした
最後になるが,議論・騒動,言説のフレームd,枠の中で
話されているか・
二元対立,二元論的な議論で
私も全部じゃないけど,一部資料を読んでいると
健全な育成vs悪質,害,善悪論的な構造になってる中で
これもアメリカにおける反ポルノ,反検閲のなかで
ジュディス・バトラーの例として
規制の言説の限界と矛盾について.
簡単に説明すると,ロバート・メイプルソープという写真家が
検閲の対象となったりして
アメリカでの保守派の議員と
初めてその政府が法案を作ろうとしている議論があったが
その言説をよく読んでみたりして,彼女は逆に,
検閲規制を作ろうとしている言説自体が
性的・ポルノ的なものを作っているのに
罠にはまっているのではないか
逆に複数の目線からみて読むいろんな性表現,描写を
一本だけの線で見ようとしているときに
いろんなものが見失われたり,ぎゃくに,避けようとしているものを
強調してしまうのではないかという
簡単に言うとそういう議論でした.
長くなりましたが終わります.
(14:44)
吉村
問題が複雑なだけに複数の目線をもつのは大切なのが
それが単線的な問題として語られているのではないか
その中で海外の状況はこうだ,というのが
聞く側の私たちにとっても説得力をもったり,
そういうものだと理解しがちなことがある
逆に,ベルンツさんから.
ベルンツ:
ドイツの出身です
19年前から日本に住んでて,日本の大学で働いてきた
芸術学部以外の視点からも
世界中でマンガブームなので
グローバルの観点からマンガを考えるようになってきた
東京都,大阪府,京都府,のもくろみをみますと
一つの特徴が目立つ
国全体の法律よりも,ローカルな条例に当てはまるのに
規制推進派によって国と関連づけられるわけだが
「日本国が児童ポルノ大国として世界に映ってはいけない」(アグネス・チャン風に)
ところが国の名において,マンガにおける性的表現を
一般化してしまおうというのは,規制推進派だけじゃなく
規制反対はにも見られる
翻訳家の指摘だが
金光さんは,非実在青少年問題を,日本に
日本における犯罪,治安状況の無知
日本における性嗜好が,実生活の性嗜好と対応しないことへの無知
女性や未成年者への自己表現へのバトして花開いたエロ漫画に対する無知
があげられる
1995年に,この本をドイツ語で出版してもらったとき
大人のファンタジーのために,
ベルリンの左翼系の民間人に酷評されたわけです
当時,マンガを巡る?が未熟なときに
一般的なメディアに掲載された唯一の書評だった
しかし95年いらい,海外におけるマンガの立場が大きく変わってきた
立場や記号性,役割が知られていないとは言えない状況になった
ところが日本国内に置いて,国単位でしか表現を理解できない人によって
vいずれにせよ,海外が,日本をロリコン大国を見なすよ,というとき
いったい海外の誰がそういう見方をしているのかはっきりしておかないと
おかしくなってしまう
少なくともこの15年に増えてきたマンガファンには当てはまらない
今回の議論でも欧米を主に指しているが
日本漫画の魅力を何に求めてきたかを
非実在青少年の問題から確認しておきましょう
1.マンガ文化における女性の姿態性
2.ティーンエイジャーの役割
3.ジャンル横断
4.物語の役割
1.女性による女性のためのマンガ
例えばドイツに置いて,女性がマンガ読者の過半数を占める
「Shonenai」で定着したBLややおいを含むジャンルは
少女漫画とは違うマンガとしては認識されてきている
Shonenaiものを好む読者は,必ずしもスマートな都会人や
素敵なキャリアウーマンになりそうな学生だけではない
それは差別ではなくて,この人たちにとってどれほど重要なのかを強調したい
社会における強者よりも弱者に,孤独や
同人誌やネット,コスプレなどで
クリエイティビティを活かす機会を見いだすことになる
女性のみ鳴らず未成年者や移民にも当てはまる
ドイツで女性向けのマンガを描いてる人の多くは女性
2. 読者も,子どもと大人の間に位置づけられる人が多い
欧米のコミック文化では,子ども向けと大人向けのものしかなかったが
ティーンエイジャー向けについては日本漫画の普及を待つしかなかった
セクシャリティをもつマンガが,ティーンエイジャーの大助かりとなる
ものとして,桂正和の「電影少女」も高く評価されている
14歳までの児童と,14歳から18歳までの若者を細分化する国もあり
ドイツはその一つ.
その一つ,出奔会に置いても,12歳以上,15歳以上,18歳以上という
たとえばドイツ語版で40巻まででている「ふたりエッチ」は16以上になっている
ほかにもミ系も15歳,16歳以上になっている
細分化が可能なのではないか
海外は一枚岩ではない
エロマンガに対する態度にもあらわれる
大人と子どもの線引きに関するあいまいさ
近年最もグローバル化されているマンガは,そのキャラクターに置いて
子どもの中野大人,大人の中野子どもにたいして訴えかけているからこそ
魅力的である
子どもっぽい体でランドセルをしょっているキャラクターが
必ずしも小学生を表しているわけではないのは基礎知識ですね
人間=大人の白人の男性,という表現から離れる点でも
歓迎されている
3. 読者層と
性描写に関する明確な線引きも難しいと言うこと
今回の準備に当たって
エロマンガ・ポルノマンガの割合について聞いてみた
平均してみれば,エロマンガは1/4を締めていると推測されている
もちろん明確な数字はない
ただし,その出版社の返事に共通点が.
「線引きが難しい」という点.
恋愛もの,アクションものにも,エロ・ポルノと思われる要素が良く含まれているから
たとえば,たかみひろはる「バトル・ロワイヤル」
「天上天下」
「KIZUAN」
つまり,近年の日本漫画には,ジャンル横断的な作品が多いと言うことを見逃してはいけない
こういう状況であるからこそ,ポルノとは何であるかという
明確,正確な定義が求められていrう
海外のファンは,エロマンガを,欧米のポルノ映画と区別・比較している
このためhentaiという言葉を定着させてきた.
ドイツ語のウィキペディアによると
「hentaiは実在のポルノと違って,触手・ロリコン・ショタコンなど
実在しないエロ=」
エロマンガの文化的特質を認めているわけですが
二つの性犯罪の動向が見当たります
一つ目は,コンテンツ産業については,日本らしさが強調されている一方
マンガ規制に置いては,国際的なことが強調されている
欧米のファンは「日本はキリスト教の国じゃないのでは?」
どこまでエロ,どこまでポルノであるかについて,
行き詰まりのアメリカから,リベラルなドイツを経て,フランス,イタリアを通じて
社会的状況が異なっている
4.欧米のポルノ映画との違い
性描写を正当化するために,物語的文脈,暗示的表現が重視されてきた
笑えるほど.
しかし,ゼロ年代に入って,性交する人々の人格や人間関係も描写せず
文学的にまったく違う
1980年代以降,物語の工夫,ユーモア,アクションとの絡みや
アニメ,サントラが進んでいるからこそ,読者層の拡大をなしえたのではないかという
仮説すら有る
つまり,欧米ポルノ映画と,日本漫画・アニメが正反対の道を歩んできたのではないか
ポルノの有り無しを定めるので当たって,
単独のビジュアルに固執するのではなく
その物語における役割を認識すべきと言う
けして新しくない役割を確認できるでしょう
(15:02)
吉村:
表現問題に,長らく関わってこられた
伊藤さんに
伊藤:その前にちょっとトイレ(笑)
竹宮さんとアグネス・チャンさんの対談があった.4月9日の朝日新聞,
伊藤:
先ほどのベルント先生の話にもあった
キャラクター表現における性描写の多様性
ポルノグラフィックと層でないものが複雑に入り組んでいる
一方で,日本のコミックはすべて児童ポルノであるかのような
これはデマゴギーといってよいと思うが
国際会議の場で喧伝されている
日本のある種の社会を清潔にしたい人たちが
そういったことを言っている人がいる
それをほとんど,何も考えずに報道するという
それによって事実がフレームアップしてしまう
ページのほとんどが幼児のように見えるキャラクターが性的に陵辱され続けると
いうのがあるが,そういったものは比較的マイナーなもので
よく,エロマンガを描いている人は商業主義であって
作家性がない,売りたいが為にやっていると言われる
ところがハードコアな漫画になるとマーケットは小さい
「レイプレイ」というゲームがCNNで採り上げられたが
日本ではこのようなゲームがヒットしている
これはウソです.ほとんど売れていない
限られている.
これには二つ以上意味があるが
こういった無知や誤解の中に,案外言われてないことがあって
例えば漫画の中で,幼女・あるいは男の子でもいいが
性的な対象になっている場合
それを受容している読者たちはみなペドファイルであると
これは誤解.確かめる方法はない.「あなたペドファイルですか」と
しつこく聞いたって答えない
それはごまかしている,という意味ではなくて
みなさん自分自身の欲望を隅々まで良く自覚しているか
そんなことはない
欲望は複雑なものである
じつはペドファイルのつもりであるが実はそうでもないということすらある
これはジュディス・バトラーの講演会,2006年1月の質疑応答
荻上チキさんの知り合いのひとが,SNSに書いたものを,荻上チキさんが
引いて,それを再引用したが
司会者が「オタクがペドフィリアなんですね」とまとめようとしたところ,
「現実の幼児に欲望を向けるペドフィリアと,オタク的欲望はまったく違う」
さすがにジュディス・バトラー,そう答えた
ペドフィリアへの幻想と,行動は区別されなければならない
行動を非難すべきであって欲望を非難すべきではない
バトラーは欲望を区別するところに力点を置いているが
非常に慎重に話をしなければ行けないが
こどもがエロティックな姿態を取るという漫画はあるが
しかしそういったものを支えているのが,現実の児童を支える
身体・性欲と重ならない
キャラで描かれた図像にはバンバン来るけど
現実の子どもには全く来ない
僕もそうですが
そういう人は多いのではないか
もちろんそうでない人もいるかもしれないが,比率を出すのは不可能
オタク=ペドファイルという幻想が
いつまでも一人歩きしてしまう
これはまずいだろうと.
そうすると,逆に言うと
キャラクターによる表現空間は,非常に多用な欲望の受容体になっている
いわゆる「萌えキャラ」の図像として何をもってこようかいろいろ迷ったけど
これは下妻市のキャラクターのシモンちゃん
もっとも洗練されていて
手塚治虫のあるマンガと髪型が一緒と
もうひとつ,公共のものとして提示されているので例に挙げるんですが
茨城県下妻市のキャラクターにシモンちゃんというのがあります(絵を提示)
シモンちゃんには性別がありませんと,オフィシャルにはなっている
後ろにしょってる蝶の羽根がオオムラサキなので
政治的に読み込むことは可能だが
オスの羽根なので
これは男の娘であると
遊技的にそういうことにしておもしろがりましょうと
しかしシモンちゃんには性別はありませんと
自治体が作るキャラクターに関して性別がないというのはたくさんある
それはポリティカルコレクトネスから来ている
しかし性別を勝手に宣言してしまえる
ユーザーにゆだねられている,という曖昧な多様性を今日しつつ
しかし曖昧な
それ自体が性欲を喚起するレベル
観客・読者がいる
これがキャラの図像を介して,ものを認識するわけですね
通常,キャラの図像の背後には,現実に参照し売るような
現実の身体があり,子どもの絵が描かれていたら
そのう白の現実の子ども,現実の身体を表象している
図像という形で現前させているのだと
しかし先ほどのシモンちゃんを捉えると
キャラの図像のレベルで,性的な欲望の喚起がそこで完結していて
この背後に,何もない可能性がある
ただ完全に何もないと言い切ることも問題であって
現実の身体ではない別の存在感のようなもの
これが何なのかは非常な複雑な議論を待たなければ行けない
そのことについて源理論的な話を,多少なりともしていきたい
5年前『テヅカ・イズ・デッド』でこのように表現した
「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの
定義だけが一人歩きしたところがあって
ここでは図像で描かれた場合
簡単な線画で描かれている,固有名詞で名指されている
しかし背後に現実の身体とは直接結びつかない
もう少し繊細な言い方をすれば,半分切れていて,半分繋がっている
これは,文字ともイメージとも着かないものと解釈されていいだろう
西洋近代的な,ものでは捉えきれないのではないか
さらに性欲の客体としても機能する
であれば,キャラ表現空間として
欧米においても,日本漫画のファンタジーは既に知っていると言うことですね
キャラ(kyara)と
90年代にアニメUKという雑誌でキャラクターと分離して説明されていた
実はこれはイギリス起源
一般的にキャラクターとはどう認識されているか
物語がありその内面があって,人生,物語に従属するもの
これは
小田切博
図像のみ,図像のフェティッシュのみで成立しているものを
フェティッシュキャラクターという
日本のキャラクター表現は,右下の,図像の要素がきわめて強くなってしまっている
もちろん,ステレオタイプとしての意味もあるだろう
作品に従属する内面というものもあるだろう
一般的なキャラクター
小田切さんは,伊藤剛はシンボリックキャラクターをすっかり忘れているといわれてるが
ヘタリアが,シンボリックなキャラクターにみせかけておいて
実はフェティッシュキャラクターであるという
アクロバットな理解も割としやすいのではないjか
図像に着目する理由としては,マンガないしアニメに対する
身体を表象しない「存在感」をきっちりという
「マンガのお化け」という概念について説明したい
「マンガのお化け」とは,手塚治虫「地底国の怪人」(1948年)の
読解を通して得られた概念
東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生」のまとめから引いているが
伊藤に依れば~
これどういうことかというと,先補ドの「キャラ図像」のレベルで
存在感が確立されていることが見えなくなってしまい,現実の
身体をキャラ表現で描きうるのである,と転倒がおこっている
この手の話は,通じる人には一瞬で通じるが
分からない人には何回言っても分からない
線画による存在感をまず説明したい
再考・手塚治虫に出したのと同じものだが
おかあさんが描くマンガ
母親が小さな子どもに遊びの延長として簡単に描くマンガ
幼児に見せるものは,象形文字に毛が生えたようなものでよい
このようなものであっても,固有名で名指し得るような人格のようなもの
にしてしまうわけである
ちなみにこれは本人(手塚治虫)筆.らしい.
次に1962年に出た漫画の本に描かれている
現実的な絵からだんだん線を減らしていって最後には漫画になる
しかしこれ診てもらえば分かるが,
1番,2番,3番と,矢印が逆になっていることに着目してほしい
絵のスタイルが逆になっているのであって
情報は1の法が少ない
受容のしやすさは1の方が大きい
棒人間のようなものに様々な肉付けをしていって,
『地底国の怪人』ウサギの耳男という登場人物が出てきます
このヒゲ親父とケンイチくんが,実験している
地球を掘ってトンネルで反対側へ行く実験が出てきます
地底人が出てきて,ちょっとした勘違いから
耳男くんは設計図を奪われる
やっぱり君はウサギだよ
人間になれと
その後,耳男は,変装して主人公たちに貢献する
いっぽう,別の変装をして,リボンを付けた女の子
ミミーという名前で,幼女のように見えるけど
大学での技師であると
ところが地底列車はマグマだまりに突っ込んで失敗してしまう
主人公たちは暑さで昏倒してしまう
耳男が献身的な働きをしてかれは倒れてしまう
ウサギですから,顔に毛が生えているわけですね
だけれども,カツラはかぶってたら女の子,帽子をかぶってたら男の子
それをとったらウサギ,と
簡単な線画で描かれているにもかかわらず,近代的な人間を描けてしまうと言う
パラドックスがある
線画で描かれているにもかかわらず,他方で,身体を想像させないと言うこと
顔に毛が生えているので成り立たないわけですが
この話を30回か40回かしているが
それを指摘したところでこのシーンの情感は減らない
現実の身体を想像させないが
その力を利用しているにもかかわらずそれを想像させないことによって
日本の漫画は成り立っている
ペドファイルの問題,ロリコンの問題はべつものであるのに
ここを別にみなければならない
言い方を変えると,ショタコン・ロリコンマンガは
幼女のお化けではなく,マンガのお化けである
この作中にまさに「マンガのお化けか」というのが出てくるが
キャラの自立化といっているが
線画が存在感を持ってしまうということは戦前・戦中にすでに認識されていたということについて
「八太郎将軍」の中に出てくる
日本の,大和魂をもって英米と戦う
かれを惑わす存在としてディズニーキャラが出てくる
このあと,かれらの正体が,アニメのフィルムの切れ端であるというのが分かる
こうした簡単な線画で描かれているものが存在感をもってしまうというのを逆手に取った表現としては
日本の漫画の中により深く入り込んでいる
マンガのお化け性にかなり立脚している
1975年の手塚治虫の短編ですが
このヒロインの,鞄の中から出てくるんですが
これジュジュという名前なんですが,幼女ですね
はるか未来の日本が北と南に分かれて戦争している
当時の日本はベトナム戦争の時代ですから
ベトナムの問題と絡んでいるという作品
そういった社会的なのは今日の本題ではないんですが
長靴だけを着て全裸に見えるんですが
鞄の中に全裸の幼児が入ってたと言うことについて
彼は全く驚いてない
作品の世界では,彼女が服を着ているのか全裸であるのかは
ぜんぜん問われていない
突っ込みをするしないとは別に,この表現が選び取られている
もちろん手塚治虫が写実的な表現を得たあとの作品です
ある種の写実性があることは見て取れるが
服を着ているのかいないのか分からないような表現を
持ち込んだ意図はいまとなってはわかりませんが
ある種の表現上の必然性があったことはいえる
これもポルノグラフィックといえるでしょうが
この子が米軍から逃走するくだりになるんですけど
逃げてお金を稼ぐために,ドヤ街のストリップ劇場で
ヌードダンサーをやると
そうすると小屋主が「だって20歳だと本人が言うから」
というまさに非実在の問題がでてくる
Wikipediaによると,アホ毛の起源はメルモちゃんということになっているが,
メルモよりもアホ毛が細いので起源はむしろこちらではないかなと
(シモンちゃんと)髪型一緒ですね
今日どういう図像を用意するのかはかなり迷った
ただ,いきなりそれをみせることによって非常に強いショックに陥ってしまい
没論理におちこむ可能性がある
こうしたものと性的な表現が地続きになっている,入り組んでいる
ことを規制を推進したい人はもっと考えてほしい
自分が不快に思うからといって規制していいわけではない
マンガ論争2.5
コミティアから通販があるのでそれをご利用ください
非実在青少年条例に対して署名用紙があるのでそれも後ろにあります
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